薙鎌
薙鎌神社祠の扉に描かれた出土した薙鎌のレリーフ。昭和5年に旧御射山神社付近から「上田貢氏」によって発掘されました。遠い鎌倉時代北条氏をはじめ、全国から武将がここに集まり「流鏑馬」「笠懸」「犬追物」など武芸大会が行われ、まさに国体発祥の地と言えます。実物は諏訪市博物館で保管され、現在祠にはレプリカが祭られています。
旧御射山遺跡八島ヶ原湿原の南端に旧御射山遺跡がある。古代から五穀豊饒を祈願した祭りが最も盛んになったのは鎌倉幕府の時であり、全国から鎌倉の武士達が集い、流鏑馬(やぶさめ)や笠懸(かさがけ)などの武術を競い合ったことから、国体発祥の地とも言われている。西側の丘には観客席跡の土段が残っている『尾花ふく穂屋のめくりのひとむらに しばし里あり秋の御射山』諏訪大社下社大祝 金刺 盛久の歌
四つの穂屋を中心に祭壇を設け、祭りに参向する勅使の桟敷、参列する武将は北条氏を始め、千葉氏、佐々木氏、梶原氏、和田氏、信濃では諏訪神家、海野氏、望月氏、根津氏それに甲州侍桟敷を設けた。天然の丘に土段を設けた観覧席はあふれんばかりの見物人でいっぱいになった。昔、諏訪のお明神様がインドのある国の王様であられた時、悪獣が良民を害して困窮した。悪者は王の城をのっとり、王の身が危うい時天帝に助けを請うと、三光一度に輝き悪賊を追い払ったと言われている。ここ御射山は地上に三光を具現した日本で唯一の聖地でありすなわち、真澄の池=「太陽」は池のくるみ、鎌ヶ池=「月」、七島八島=「星」になぞらえたと言われている。(諏訪市上桑原牧野組合伝承資料に基づきました)
武技が行われた御射山の原には、現在も観覧咳席跡の土段が残っている。
上田 貢(明治20年~昭和47年)
諏訪の高島藩士の家に生まれ、上京して印刷技術を習得したのち帰郷して印刷会社を経営するかたわら、霧ヶ峰高原の開拓に早くから取り組んだ。
全国的な雪不足となった昭和7年に霧ヶ峰をスキー場として紹介したことで、以後霧ヶ峰の開拓が進み「霧ヶ峰開拓の父」と呼ばれた。一方で旧御射山遺跡の調査研究も行い、諏訪社の重要な祭具である薙鎌(のちに諏訪市有形文化財指定、現在は諏訪市博物館所有)を発見し、ご神体として霧ヶ峰に薙鎌神社を建立した。
また、「霧ヶ峰文化の会」を設立して会長を務め、霧ヶ峰を広く紹介する活動を行った。同会はビーナスライン反対運動」の際は中心的な存在ともなり、諏訪の自然保護運動にも大きなよく割を果たした。